このところロボットや人工知能がめざましい発達を遂げています。10年後には、わたしたちの生活はロボットと人工知能によって劇的に変化している可能性が高いでしょう。
2001年宇宙の旅が示唆していること
年配の読者の方なら覚えているかもしれませんが、かつて、スタンリー・キューブリック氏が監督した「2001年宇宙の旅」という映画がありました。HAL9000という人工知能が反乱を起こし、宇宙船の乗組員を殺害しようとするというストーリーです。
最後に生き残った主人公は、ギリギリのところでHAL9000の基板を抜き、人工知能の暴走をストップすることに成功します。この映画が上映された当時、日本での評価のほとんどは「テクノロジーに依存し過ぎた人間に対する警鐘である」といった内容でした。
しかし、この映画の原作者であるアーサー・C・クラーク氏が伝えたかったことは、おそらくそうではないでしょう。
むしろテクノロジーの発達は避けて通ることができないものであり、人間はテクノロジーの進化以上に、さらに高度な次元に進化しなければならないというメッセージと考えられます。
これまで数多くのテクノロジーが登場し、人間の生活を大きく変えてきました。しかし、自動車であれ、飛行機であれ、インターネットであれ、基本的に、人間の生活における物理的な制約を少なくするものであり、人間の生活を本質的に変えるようなものではありませんでした。
ところがインターネットが単なる通信手段ではなく、グーグルに代表されるようなネット企業によって、人間の知的活動を集約・整理するような機能を持ち始めてからは、状況がだいぶ変わりつつあります。
ロボットと人工知能はネットによる知の再構成と結び付き、人間の知的活動領域を大きく変える可能性が出てきています。
10時間の移動が1時間になったというような分かりやすい変化ではありませんが、より本質的な変化という意味では、もっとも革命的な変化になる可能性すらあるのです。
まさに、人間の知性が新しい次元に進化できるのかという点で「2001年宇宙の旅」で示されたテーマが問われているといってよいでしょう。
人工知能がひっくり返すインタフェースの進歩
人工知能が家庭に入ってきた場合、IT機器や家電とのインタフェースに対する概念が劇的に変化します。機会と人間の間を取り持つインタフェースは、コンピュータがこれまで辿ってきた進化を考えると、ほとんど石器時代のままです。
コンピュータがこの世に登場した時から、コンピュータと人間のインタフェースはずっとキーボードが中心でした。マウスやタッチパネルも出てきましたが、文字で指示をするのか、指で指示をするのかの違いで、基本的なやり方は何十年も変わっていません。
その間、コンピュータの処理能力は何万倍にも向上し、様々な機能を持つようになったにも関わらず、機械とのやり取りはほとんど進化していなかったのです。
しかし人工知能の登場はこの分野に劇的なブレークスルーをもたらす可能性があります。人工知能が利用者の行動を先読みして、機械の操作を行うことが可能となってきたからです。
人工知能を使えば、利用者の行動履歴から、そろそろ何を買いそうか、どんな行動をしそうか、健康状態がどうなっているかなどを予測することができます。利用者が欲しそうな本をあらかじめ探しておいて、「こんな本がありますが買いますか?」と聞いてくるわけです。
機械とのインタフェースがなかなか進化しなかったのは、人間の手や目という身体的制約があったからです。しかし人工知能はまったく逆の世界となります。
利用者の行動を予測することで、機械を操作しなくてもいいように先回りするわけです。操作を簡単にする努力や、下手をすると、操作そのものが必要なくなってしまうのです。
人間の本質が問われる時代に
そうなってくると、ルーティンワーク的な思考はロボットが担ってくれるようになりますから、人間の知的リソースをこうした単純作業に振り向ける必要がなくなります。もっと創造的で水準の高い活動に時間を割くことができるわけです。
先日、このコラムで海外の音楽聴き放題サービスのSpotifyについて書きました。Spotifyには、利用者の音楽の好みを解析し、それにふさわしい曲を勝手にラジオのように流してくる機能があるのですが、この機能の精度は極めて高く、自分の好みにドンピシャリの曲を繰り出してきます。
これも一種の人工知能といってよいものですが、こうした技術は相当なレベルまで進んでいることを伺わせます。逆に言えば、複雑で単純ではないと思っていた自分の頭の中は、実はコンピュータで簡単に解析できるレベルだったと考えることもできます。
人工知能によって、より付加価値の高い知識活動に集中できるのなら、それはすばらしいことですが、一方で非常に厳しい時代の到来でもあります。人間はよほど価値の高い知的活動を行わなければ、その存在意義がなくなってしまうからです。
テクノロジーに依存した人間に対する警鐘であるという考え方は、変化を望まない人の心理が変形したものなのかもしれません。