加谷珪一の情報リテラシー基礎講座 第19回
人は極めて大きな業績を残した人物に対して、人格的にも立派であって欲しいという願望を持つ傾向があります。したがって、著名人で、大きな成果を上げた人について情報を得る場合には、願望によるバイアスを警戒する必要があるのです。
アップル創業者でカリスマ経営者である故スティーブ・ジョブズ氏の伝記をめぐる騒動はまさにこの典型的な例といってよいでしょう。
ジョブズ氏は反社会的な人物であることがウリだったが・・・
ジョブズ氏の伝記といえば、ジョブズ氏が死去した直後の2011年にウォルター・アイザックソン氏によって書かれたものが有名です。この本は全世界的なベストセラーになりました。
騒動になったのはこの伝記ではなく、2人のジャーナリストによって2015年に書かれた伝記の方です。
この伝記は、生前のジョブズ氏に対する取材は行われているものの、現在、同社のCEO(最高経営責任者)を務めるティム・クック氏ら、現役幹部へのインタビューが中心となっており、伝記というよりも人物評伝といった内容に近いものでした(ちなみに、アイザックソン氏による2011年の伝記は、ジョブズ氏が直接アイザックソン氏に依頼して書かせたものなで、一般的にはこちらの方が正式な伝記と認識されています)。
ところが、CEOのクック氏らは、新しい伝記を絶賛し、以前の伝記は「ジョブズ氏の真実を描いていない」と辛辣に批判しました。これをきっかけにどちらの伝記が正しいのかという論争になってしまいました。
クック氏がアイザックソン氏の伝記を批判した理由は、そこに描かれたジョブズ氏の人柄です。
ジョブズ氏は実は非常にエキセントリックな性格で有名でした。ジョブズ氏はもともと反体制的なヒッピーの出身で、歌手のボブ・ディラン氏に心酔していました。
若い頃は、風呂に入らないことで有名で、ドラッグの経験もあります。16歳で、電話をタダでかけられる違法マシンを開発し数千ドルを稼いだ天才少年でもあり、アップル創業前後も、違法スレスレの行為を行っていたとされています。
人物評価は人々の利害で大きく変わる
同社が大きくなってからも言動はあまり変わっていません。自分が気に入らない部下には容赦なく罵声を浴びせ、執拗に退職を迫るのは日常茶飯事でしたし、エレベータに乗り合わせた社員と口論になり、その場でクビにしたことなど、真偽不明のものも含めると様々な逸話があります。今の常識で考えれば、100%ブラック経営者ということになるでしょう。
ジョブズ氏のこうした性格は、IT業界ではよく知られており、従来は、こうした負の側面も含めて、総合的にジョブズ氏を評価する人がほとんどでした。以前の伝記は、ジョブズ氏が依頼して書かせたものですから、ここまではひどくはないものの、ジョブズ氏のエキセントリックな面がそれなりにストレートに描かれています。
ところがアップルという会社が巨大化するにつれて、こうした状況が許されなくなりました。ジョブズ氏は、本人が望むと望まざるとにかかわらず、全世界の模範となる人物にならざるを得なくなったのです。クック氏が、ジョブズ氏を人格者と描く新しい伝記を絶賛し、以前の正式な伝記を否定することにはこうした背景があります。
クック氏が、新しい伝記を過度に賞賛する姿勢は評価できませんが、現在のアップルの状況を考えると、以前の伝記のイメージを何とか払拭したいというクック氏の気持ちも分からないではありません。
何せ若い社会人に対するアンケート調査で、ジョブズ氏が理想の上司ナンバー1にランキングされるような時代です。わたしたちは人物の評価という部分にもこうしたバイアスが働きやすいのだということをよく理解しておく必要があるでしょう。
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