STAP細胞問題の中心人物の一人であった、理化学研究所発生・再生科学総合研究センターの笹井芳樹・副センター長が自殺しました。
この原稿を書いている時点で、自殺の理由は不明ですが、小保方さん宛の遺書もあったということですから、STAP細胞問題を苦にしての自殺とみて間違いないでしょう。
日本では自殺してしまうエリートが多い
日本では、組織の要職にある人が、スキャンダルや経営危機などの問題が発生すると、いとも簡単に自殺してしまうケースが目立ちます。今年の1月には、経営問題が山積しているJR北海道の元社長が自殺したというニュースが報じられたばかりです(同社では以前にも社長が自殺しています)。
笹井氏は学者ではありますが、理化学研究所という、事実上、国費で運営される研究所の責任者ですから、組織のリーダーとしての役割が大きいと考えるべきでしょう。
現代の学者は学術的な能力に加えて、こうしたプロジェクト・マネジメントのスキルが問われるというのは国際的な常識となっています。
特にSTAP細胞問題については、その真偽について世界が注目している状況です。本人の置かれた状況は相当厳しいものだったとは思いますが、それを考慮に入れたとしても、やはり自殺という解決の仕方は無責任といわざるを得ません。
組織は強靱なリーダーがいて初めて機能します。リーダーには高い報酬と社会的地位が付与されるのは、それと引き換えに大きな責任が生じるからであり、リーダーに就任する際には、こうした責任の重さを十分に理解しておく必要があります。
もし自身のキャリアやメンタリティなどの部分で、その重圧に耐えられないと思うのであれば、就任要請を辞退するのが正しい姿といえるでしょう。
しかし、日本ではこうしたプレッシャーに耐えられず、すべてを投げ出してしまうというエリートが後を絶ちません。
こうしたひ弱なリーダーが選別されてしまう背景には、年功序列、学歴偏重の人事システムの存在、組織の事なかれ主義など、これまでも様々な要因が指摘されてきました。
しかし本質的な意味で、なぜそうなっているのかという点は明らかにされていません。
日本人はひ弱なエリートを求めている
この問題を100%客観的に分析することは不可能でしょう。しかしあえて分析するならば、筆者は、日本の組織がひ弱なリーダーを選出しているのは、日本人自身がそれを求めた結果であると考えています。
要するに支配の正当性のないエリートをあえて選出しているということなのですが、その方が、全員にとってラクな社会になっているのです。
例えば、学歴が一番高い人をトップに据えておけば、皆がトップを目指して激しい競争をしなくて済みます。
本来、エリートはエリート社会の中で行われる激しい選抜競争を勝ち抜いていく必要があり、強靱な精神力もこうした戦いの中で養われていきます。しかし、こうしたプロセスをなくし、学歴やコネだけでポストを決めてしまえば、皆がラクをできるわけです。
これは出世できなかった人にとっても同じです。出世できなかった人は「俺は本当は実力があるのだが、学歴がなかったのでエラくなれなかっただけだ」といって納得することができます。
また選ばれたエリートは、支配の正当性を持っていませんから、下に対して強く出ることができません。これは下の人にとっても心地がよい状態なわけです。
日本ではエリートの報酬が諸外国と比べて安いケースが多いのですが、これも支配の正当性という部分を考えると納得がいきます。
しかしこの状態は、ひとたび危機が訪れると一気に機能不全を起こしてしまいます。危機に際して、トップというものは時に非情な決断をしなければなりません。しかし、苛烈な競争を経ていない、ひ弱なトップはこうした決断に躊躇してしまいます。
自分の身の振り方についても同様です。あらゆる競争を勝ち抜いてきたという自負がありませんから、多くのプレッシャーにさらされると、心が折れてしまうわけです。
これまで日本は高度成長という、ある意味で単純な時代にはうまく適合してきました。しかし、社会の変容が激しくなってきた今、方向性を見失っているように見えます。こうした状況と日本型トップの選抜方法には深い関係がありそうです。