外務省は、パスポートの返納を命じた新潟市のフリーカメラマンについて、渡航先を制限した新たなパスポートを発給することを検討しているそうです。
今回の一連の騒動は、個人の行動の自由を国家がどこまで制限できるのかという問題を提起しました。日本はまだ前近代的なムラ社会の慣習が色濃く残っており、100%近代国家になりきれていないところがあります。これをきっかけに、国家とはそもそもなぜ形成するのかについて考えてみるのもよいでしょう。
民主国家の原理原則で考えると
外務省は今年2月、過激派組織イスラム国が勢力を拡大しているシリアへの渡航を計画していたフリーカメラマン・杉本祐一氏に対し、安全が確保できないとして、渡航を自粛するよう要請しました。
しかし杉本氏が納得しなかったことから、旅券法に基づきパスポートの返納を命じ、強制的に回収しました。杉本氏は自由な取材ができなくなるとして、これに反発しています。
杉本氏の行動や外務省の措置については、様々な意見が出ています。個人の勝手な行動は国家が制限すべきだという声もありますし、パスポートを取り上げるという措置は基本的人権を侵害しているという主張もあります。
まず原理原則からいうと、民主国家の場合(中国や北朝鮮など非民主国家の場合には事情が異なります)、移動や居住の自由が保障されなければなりませんから、原則として国家が個人の渡航を制限することについては、極めて抑制的であるべきです。
民主国家という存在は、理屈上、個人の行動は原則自由であるという価値観を持った人だけが集まって、国家を形成したものですから、そもそも、自由という価値観が根本的なアイデンティティとなっているわけです。
なぜ国家というものを形成しているのか?
これに対して、独裁政権や共産政権などは、個人は基本的に自由ではないという価値観で国家が形成されていますから、根本的に考え方が異なります。
日本は以前は違っていましたが、今はれっきとした民主国家ですから、すべてはここを基準に物事を考える必要があるわけです。
しかしながら、いくら個人の自由といっても、紛争地域や敵対国などに足を踏み入れることで、国民全体の利益が侵害されるケースもあります。
そのような場合には、個人の行動に対して、ある程度の制限がかけられてもやむを得ないという考え方も成立するでしょう。最終的には、このバランスでどうするのかで、対応が決まるわけです。
しかし、原則として自由が認められず状況に応じて許可されるのと、原則自由で、状況によって制限されるのとでは、天と地ほどの違いがあります。
こうした視点で考えてみると、パスポートを強制的に返納させた当初の外務省の措置には問題があります。外交問題を複雑にしたくないという、事なかれ主義の結果、もっとも安易な方法を決断したとみなされても仕方ないでしょう。
今回、外務省が検討している措置は、原則自由でシリアなどへの渡航は制限するというものですから、前回の措置に比べると、かなり前進しています。
民主国家としてはここがスタート地点となりますから、杉本氏のシリアへの渡航が妥当なのかは、ここから大いに議論すべきでしょう。